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東尾張乱射事件

【次回の記事予定】「お金」で「愛情」や「友情」が買える『脳内麻薬 ドーパミンの正体』を読んだ感想。

NUDE or Higashi

Owari Ranshajiken

ざわざわざわざわ

はじめての手術2

【鼠径ヘルニア 術後の様態】
 歩くことさえままならないうちに退院することができたことは、ホント良かった。入院中とくに苦痛だったのは、24時間つづく点滴と、腹部の痛み。
 退院後は、腹部の痛みと「この痛みは一生ものなのだろうか?」という不安。なんやかやと想像するに、今なお痛みつづけているだけに末恐ろしい、今日このごろ。
 とりあえず明日、退院後初の外来を受けてくる。
 すでに剃毛された傷口一帯の毛穴からは、じょじょに元気な毛端が顔をのぞかせている。そこで、ヒゲ剃りあとをなぞるみたく、皮質の柔軟な手の甲の側で、傷面をそっと触れてやる。すると、現実にはまだ何も派生していないはずの感覚がくる。なにか刺すような、あるいは痒いような感覚。それは、まず想像から始まるともいえる。その感じは、脳内で擬育されたものなのか、痛みとして受け取るというより、たぶん目隠しをされて、パンツを下ろされ、ベッドに寝かされ、枕元には、よく切れるオペ用のナイフを持った少年がいたりもする。彼は以前に『なぜ人を殺してはいけないのか?』と質問した少年である。彼の目にも何故か目隠しがされている。そして僕はそれだけの情報をもちつつ、あとは言葉のみで、彼の本能に対抗していかねばならない。なんといって声をかけるべきか?

 あるいはまた、これまであった己のまったくもって未開であった蒙がすこしだけ開いたというか、今回入院中している間、いちばん身にしみたおもいが一つある。それは看護師さんらの仕事について。崇高ともいえるような神神しいシーンを、ぼくはベッドの上で何度となく目にし耳にしそしてお世話になった。比喩でなくほんとに天使に見えた。



【映画『ザ・コーヴ』を見て】
 ユーストリームに無料であがっていたのでモザイクなしの『ザ・コーヴ』を視聴。
 感想は、普通に面白かったし、あのような残虐で野蛮な行為は、普通に見ていて不快だと感じた。
 なにかこう、昔の水曜スペシャル『川口探検隊シリーズ』や、電波少年といったテレビ的で匿名的な表現ではない点が良かった。そう、例えその主張がどうあれ、そこにはちゃんと表現したい方向があって分かりやすかった。ちゃんとそれぞれが個人の名でエントリーをし、素顔をさらし、そしてその本人の主張は、「私はね、人間なんかよりもね、無垢なイルカを救いたいだけだよ」そういったような思想がずばり見えてくる。
 また先ごろ(18日朝)、ちょうど映画の舞台となるタイジ町というところから、名古屋の名古屋港水族館に一匹のシャチ(ナミという名)が到着というニュースを見た。それまでいたクーというシャチが死亡したためらしい。http://www.nagoyaaqua.jp/aqua/topi/20080919/index.html
 この映画によるとイルカは自ら息することを止め自殺するというのだから、このたび名古屋港水族館にて死亡したというシャチにたいする想像力がほのかにはたらいてしまう。シャチの死亡原因は現在、調査中とのこと。

 でもってこの映画についてのもっかの大なる話題。この映画の内容が反日であるとか、日本文化に対する侮辱だのといったことを僕が感じたのかと言えば皆無であった。上映を中止しろなどという運動が実際にあること自体、信じられないというか、せめて年齢制限性ぐらいにしてはダメなのかと感じてしまう。
 だが、そう思ってネットを検索すると、ネガティブで情緒的な意見がけっこうでてきて、それらを読むたび、つくづく草臥た。まず、牛を食すアメリカ人にどうこう云われたくないというおなじみの意見を、とりわけよく目にした。どいだけ野蛮だろうと、危険だろうと、他の国のこと、よその家のことなんだから首をつっこむなよ!という、なにか「家(いえ)」的な価値観が無意識的に発動しているのだろうか。それとも堕胎を禁止したいキリスト原理主義者みたいなものだろうか? それともサファリパークのライオンの群れに生きた牛を、アトラクションとしてライオンに食させることにたいして、「よけいなお世話だろ」と憤慨する中国のひとたちの情緒に近いのだろうか? それともその中国で死罪となった人たちの遺体を、アメリカの人体博物館という所にて展示し、その主催者側の男が「これは文化的な貢献ですから」と嘯く心境に近いものがあるのだろうか。それとも同情を引くためにあるイカれたおじさんが自分の飼っていた犬の前足を切断し、それを他者から非難され、そしてそうした非難にはなんら動じる気色なく、むしろ非難してくるものを偽善者と罵りたがる情動に近いのだろうか?
 いちばん残念だったのは、TBSラジオのDigパーソナリティーの一人である荻上チキと外山恵理のやりとり。

 彼らの主張というのは、まずこの映画は政治的な内容であるということ。不穏なBGMが使用され、印象をコントロールしていて、ドキュメンタリー映画としては違反なのだということ。この作品こそまさに、プロパガンダ映画そのものなのだということ。ざっとそんなような意見で、なにやら荻上チキ曰く、「イラっと」ときてしょうがないとのことだった。
 もしかしたら、追い込み漁やら屠殺を生業にしている人たちに対して「慮りたい」ということなのかもしれないけれど、何かこれだけ覆い隠されることが、このように慣習的で、常態にすぎる隠蔽社会のなかで、あれはプロパガンダだろ!というような理屈で、ある小品のある表現にケチをつけることが、言論人による批評のオチとあっては、あまりにもさもしい。
 なぜ、「愛しいイルカ」や「隣人愛」を喧伝するあの自由のアメリカから、その「愛しいイルカ」的なキャンペーンにたいし、そりゃ欺瞞だと唾棄するごとくに看破してみせ、そのイルカたちをこの人間界の檻から開放しようと実行し、逮捕までされるような男が出てきたのか? なぜあの男は母国でも批判されるのにもかからずイルカを海へ返そうとすることを止めないのか? なぜそのような行動に賛同する人が異国には、ああも存在するのだろうか? みんなただのイイかっこしたいだけの偽善者なのだろうか? 偽善者になると、もうやめられらいほどのドーパミンが出てそれこそ偽善ジャンキーみたいになってしまうのだろうか? そしてもし欲望を満たすことが目的うんぬんなのだとしたら、それら中毒者はたしかに救いようもない病人なのかもしれない。ゆえに、そんな偽善ジャンキーでしかない彼らにたいして、地球生物の代表として、きわめて客観的に、鳥瞰、俯瞰できるらしき、しかるべき中立という名のマシーンのようなリテララシーを有したまっとうな知識人らは、ついつい「イラっと」きてしまうのかもしれない。
 けれど彼らの感ずるようなライン、公平だといえるような境界線が、こうした素材を扱った作品のなかでそんな気持ちよくできるものなのだろうか?
 
 

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