読書感想文の夏
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/01
- メディア: 文庫
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『明暗』夏目漱石(著)
遺作であり約600ページの未完作品。その内容はどうも三角関係らしいということから、これまで読む意欲が起こらないでいた。
<感想>
結果、もうサイコーだった。ランダムな調子で再度小説内に目を落としてみたとしても、難なく楽しめてしまえそう。実際に音読したわけではないけれど、文章音のなかに連続性(リズム)やら驚き(ブレイク)があった。まさしく「音楽」に近いのかもしれない。また音楽を聴いて「泣ける」ことはあっても「笑える」ということはないもんだと勝手に想定すると、この小説は「音楽」よりもお得なのかもしれない。
また僕の理解では最初、この小説における「未完」の意は、「あと少しで、完成するはずの小説である」と、勝手に捉えていた。なにしろ新潮文庫を横に寝かせて、その横幅をはたと眺めてみると、その厚さはもうじゅうぶん長編としての貫禄があるものだから。ところが実際的な「未完」の意は、きっと三分の一くらいじゃなかろうかというあたりで小説は終わっていた。なにしろ主人公(津田)はずっと病院のベッドの上から動かない。一歩も外出しない。約500ページも過ぎたころに、ようやく主人公はとある温泉地へ療養をかねて列車に乗車する。すると軽妙な江戸弁が庶民の口でやりとりされる。もしかたしたらその描写はあってもなくてもいいのかもしれない。が、そんな余白がぐだぐだ語られるのを読むにつけ、あるいはそれまで深く関係していた人たち、詳細に言及されていた脇役陣の影響がとうとう及ばない温泉地へと舞台が滑ってゆくのを読むにつけ、当然こちらとしても、「ああ、これはもしかしたら、物語の新たな幕開けなのだろうか」という歯ごたえを感じないわけにはいかない。
新潮文庫なので解説は柄谷行人であった。とろこがもう書くことがないのか、けっこう吝筆な枚数ですこし残念。多視点というモノサシでおそらくドストエフスキーの影響があるのではとあった。これといって中心点がなく皆、同一の視点である世界を共有しているというくらいの意味か。
僕の見た(読んだ)筋というか、画を見た時ようなこの小説の印象は、どこからどう見ても正方形にしか見えない事件がなるほど見えた。ところが「縦寸」を測ると「青」かったりした。また「横寸」を測ると「緑」になった。といったぐあいに、人間心理の屈折と、何色にも何形にも何度にも変化可能な焚火のような真実がほのめいて見えてもきた。こちらとしてはおもわず手をかざしたくもなった。そして又腕をかざした後、おのれの手の甲を見るにつけ、その面積の意外な小ささの反面、たしかに伝わる「何かが」がこの未完小説にはあるのだと確信したしだい。
『メディアと権力 渡邉恒雄』魚住昭(著)
ナベツネとはいったいどんな悪人なんだろう? という先入観で読んだ。また、そのむこうにはいったいどんな野望があるのだろうと・・・・・・
〈感想〉
渡邉恒雄の青年期まではとても面白かった(カント信者だとあった等)。面白くなくなるのは、彼が共産党に関わるようになってから。いわゆる左翼用語というのだろうか、なんたら委員会やら、なんたらカーペーがどうしたなど、耳慣れない単語が紙面を黒塗するにつれ、こちらはげんなりしてくる。そうしてこの共産党時代における権力抗争やその過程で、ある理想がその理想のための前提と対立するという構図のなかで、てっきり主役だと自負していたナベツネが、どちらかというと「好悪」とか「気分」のようなもので粛清されてしまうという不合理さに、既視感というかどうもマンネリ感がどすんときた。
では共産革命に対する挫折とは? 資本主義という敵が「デカイ」と嘯く同士の声や、その数が圧倒的なためその人の体温に感染してしまったのだ、あるいは「みんな」に迎合する「空気」に感染するほかなかったというべきか。たれに? そして結局のところ、なにに迎合することとなり、換わりに何を得ようとしたのか。あるいはそのときの選択はその後すこしくらい顧みられたりすることがあったのだろうか? この本ではそういうラインでは切り込まれていないのでわからない。
また、この当時は「共産革命」という観念が、手軽に人生のマッチポンプとして機能していたことがあらためてよくわかる。その後「転向しましたもん」と自称さえすれば、当時のお仲間と「あの頃はさっ!時代がそうだったんだよな。まっ、これからはイノベーションですか」なーんて回顧することができるユルユルの世界。
もちろん当事者じゃないからほんとうのことは分からない。
でもなぜナベツネはこれほどまでに有名なのか。そのへんによくいる成り上がり社長や自己啓発本を推奨する人とさして変わらない主義に読めてしかたなかった。ただナベツネの場合、この社会においてただただジャーナリズムの重鎮であったという位置づけが、悪名度といって鎮火しきれない、べつの「燃料と発火装置」を作ったということかもしれない。で、この本によるとマキャベリが何度か引用され、たしかにナベツネの行動原理はどうもそういうものかな、と読めなくもない。んが、よくよく考えると『君主論』がそっくりあてはまるのかといえばそれはそれで違和感がありすぎる。
というか、この本を読むと普通の社長物語以上の刺激というものが、ほんと見つからない。
むしろナベツネを取材して見えてくる、この「何もない」感じ、徒労感のごときものがこれほどまであるのかというのがいちばんの驚きなのかもしれない。
じゃっかん面白かったのは、「名詞本」について。右翼の黒幕、児玉誉士夫の著書を持参し企業を回ると、企業がまとめ買いしてくれるというもの。権力をもった経営者による経営的うんちくが、コンテツにまで言及するというもの。ドストエフスキーにむかってハリウッド脚本術を伝授するに近い。
たぶん本だけじゃなく増殖し続ける「自称文化」というたぐいは、この手の焼き回しじゃないかと思えてならない。そういう意味でいうとジャーナリズム的な分野だけではなく、文化的なジャンルにも名前の異なるナベツネ的な「経営感覚」がいま日本を覆っていることがよく分かったしだい。