東尾張乱射事件

【次回の記事予定】「お金」で「愛情」や「友情」が買える『脳内麻薬 ドーパミンの正体』を読んだ感想。

NUDE or Higashi

Owari Ranshajiken

ざわざわざわざわ

穴だらけの人生 ホール・イン・マイライフ 

坑夫 (新潮文庫)

坑夫 (新潮文庫)


『坑夫』夏目漱石(著)
 筒井康隆のエッセイかなにかに、漱石を読むなら「いちばん最初は、いちばん読みやすいコウフにするとよい」とあるのを昔に読んだ。そんなふうに書いてあると「べつに初心者じゃないし、わざわざ本を読んで、その体験が他人からあなどられるんじゃあ、割にあわない。それならぜひ『坑夫』は後回しにしよう」と、そう決めて以来、ずいぶん過ごした。挙句、とうとう読まないままに、読むとしたら人生を逆算しなくっちゃあならない齢となった。そうなると、たとい他人からあなどられようとも『坑夫』を読んでおかなくっちゃあとなる。

〈感想〉
 これまで『坑夫』という地味なタイトルから、てっきり今でいう『蟹工船』(未読)みたいな労働地獄小説を想像していた。おそらくとんでもない誤解だった。勝手にサブタイトルをつけさせていただくと、『坊ちゃん2』でもいいくらい。又そのとおり小説は坊ちゃん風の若い男が、一人称で過去を振り返る話であった。さらに『坑夫』を描いた話というより、そのコウフが集結しているらしき現場までの道程に、紙面の約7割がたが占められていた。団子を食っていた。
登山シーンがあった。また桃太郎神話のごとく、坑夫を目指す坊ちゃんの同伴者には、やはりコウフ志願の、しかし奇怪すぎる男が二人。不気味な宿泊を体験させ、やうやう地獄の一丁目にあたるようなロケーションにて元坑夫らしき、ずたずたになった男を登場させる。そこから先は、暗い地面の中をひたすら降りてゆく。既視感としては村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「やみくろ」の世界がかさなって読めた。というか、あの小説で唯一、のっぺりと、それこそその展開にじれったいな、とさせ感じる「地下闇の描写」が、この漱石にかかると、逆にワンダーランドな仕掛けがいっぱいで、自分だけかもしれないが、すでに小説の結末なんかどうでもよかったな、というか。そもそも人生終わるために坑夫を決意した男の過去談として始まるのだから、「結末」は「冒頭」なのだと読むべきか、「冒頭」に「結末」を読み、「読了後」の「現実」に、いまだ終わらない「冒頭」を見るべか?



インセプションクリストファー・ノーラン(監督)

 上映時間などをしっかりネットでチェックしたうえで劇場へ赴いた。夏なので暑いのは当然だが、やたらと信号にひっかかり踏切のある地点では、不条理な渋滞にやられてしまい、移動時間は40分もあればすむところ、60分も必要とした。それでも時間ぎりぎりに到着し、春日井コロナの階段をかけのぼって受付で
インセプションを一枚」と言った。すると店員さんは、
「18時開演の『吹き替え』でよろしいですね」ときた。
「え? ふ、『吹き替え』ですか」と自分。
「字幕は、21時になります」と続けて店員さん。
 自分はおおいに動転した。まさか『インセプション』に吹き替え版があるなんて! 
 それでふと右上を見ると『トリストーリー3』のポスターが見えた。あっ、もしかしたら時間に追われ急ぎ、息喘したせいで、「インセプション」と発音するころを、潜在的な記憶から、うっかり『トイストーリー3』と言ったのかもしれないな、と。(ネットで予告を見たような見ないような)しかし、そんな強力ないい間違いはこれまでしたことがない。もしあるとしたらこれは夢だよ。うん、そうにちがいない。じゃあ、まあそれならそれで仕方ない。そうおもって『インセプション』と発音すると『トイストーリー3』になってしまう券を購入して、急いで館内の椅子へと腰掛けた。すると、とても映画館とは思われない暑さに包まれる。密閉感と吹き替え版。吹き替え版と汗まみれで見る。こう言ってよければ汗まみれで不完全を見る。
 贅沢かもしれないが、自分は『映画鑑賞』イコール、ビックリするくらいの冷房を期待していのだ。すでにクッションとお尻のあたりに熱を感じる。
 が、まあしかし、省エネのためならしょうがないと観念し、黙ってうつむいていた。と、そこで次に気がついたのは、他の観客がいっこう増えないという不思議。自分をいれて5人、6人くらい。まあ、自分としては閑散としていたほうが気楽でいいんだが。それに「吹き替え版」などという商戦をとっているからこんなに客が少ないんだという悪いサンプルとなり、劇場側がこれにこりてやたらと「吹き替え版」を扱うのを手控えるのではないかと、自分を説得したのだった。
 
感想〉
 吹き替え版だったけれどすこぶる満足した。もちろんノーマル版が見たいのは言うまでもない。吹き替えだと渡辺謙の台詞が、まさしく日本語音声でその顔と声において、まったく違和感がないにもかかわらず、よっく見ると口との動きがあっていないという、フラストレーション。
 内容はとても複雑すぎてうまく書けない。いちよう町山智浩の『インセプション』批評でも予習しているし、『ラストタンゴ・イン・パリ』も見ているので、少なくとも2割増しくらいの理解力を自負しながら挑んだのであったが、なかなか手強かった。つまりは目で映像を追いながら、頭の隅で「ああこのシーンは第3層だろうか」など考えてもなお裏切られるという複数的な構造と、音響と、無重力シーンのステキさにほとほとまいった。あと復習としては『惑星ソラリス』を見てみなくちゃいけない。
 それにしても、なんら責任の伴わない非現実的な分からない現実というのは、なぜこんなにワクワクするのだろう?



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