9月の向こうは 何処にいこうか
- 作者: ジョージ・オーウェル,George Orwell,新庄哲夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1972/02
- メディア: 文庫
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『1984年』ジョージ・オーウェル(著)
全体主義国家に生きる悲劇を描いたクラッシク。
〈感想〉
まず、ここ(現実)にはあるが、小説界には無いであろう「今の幸せ」を前提に読み始めた。
戦争は平和である
自由は屈従である
無知は力である
このフレーズが何度も繰り返される。当然、最初はすこぶる扇動的で直接的な仕掛けだな、と軽く絶句してみる。他にも勢いのあるディストピア世界にあるであろう、ルールと、その法をやぶったさいの暴力装置やら、抑圧的空間などがいくつか紹介されている。そういってよければ、国というもののほとんどが、大なり小なり、こういった課程を得ているのかもしれないので、たしょう大げさな名称やらシステムが小説にあっても、そうそうは驚きはしない。そういう細かい点では『すばらしき新世界』のほうが、よりマニアックに理的だった記憶がある。
ただこちらのほうは、一人の抵抗する人間がしつこく描かれていた。ネタをばらするとすれば、その世界においてその男の抵抗はなんら影響をおよぼすことなく、終わってしまった。読者としては果たしてとてつもなく救いのない結果。
身が危険にさらされた時、人間は絶対に外部の敵と戦っているのではなく、自分の肉体と戦っているのだという真実を彼は思い知った。
というような文脈が最初のほうにでてくる。この未来世界では違法行為だとされる「日記」をつける前段のところである。このいさぎのよい決断が、後半のほとんどをしめる拷問シーン(7年)で、いよいよひっくり返ってしまう。で、自分としてはじわじわといろんな理屈をつけて、己の自我がやむにやまれず痩せほそって、ついにはポキンといって萎び折れてしまうというその視点にいくらかほろりときてしまった。絶望的な環境が問題なのか、不条理さが問題なのか、それともそんなクソのような状況のなかにさえ、ありもしない希望をみつくろって「妥協」したり「想像を許す」ことも辞さない生き物なのだということに、ちょっと考えてしまう。しかもその考えてしまうという意は、けっきょくなにも「考えない」よう、システムのはじきだした人間感情にそって時間をやりくりしたほうがいいと考えるのも、システムにあらがっているという意識だけの感情や時間も、つまりは「気づいても終われない」という意識のまま終わってしまうという恐ろしさ。
なにせすでに2010年なのだから。