■村上隆とマイケルとカニエとケンタッキーフライドチキンとユニコーンで
チャーリーブレイヴを軸に……馬単で勝負。
■結果はまたハズレ(涙)。
ため息が……
『想像力なき日本 アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』村上隆(著)
創造力なき日本 アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」 (角川oneテーマ21)
- 作者: 村上隆
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2012/10/10
- メディア: 新書
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始めにぼくはこの著者の作品をほとんど知らない(ニコニコ動画や美術手帖などでは時折目にした)。けれど知らないなりの情報からでも、この人の作品が「アート作品としてどうなんだ?」的な批判なり批評があることは何故か知っていたりする。
で、ひとくちで言える読み物の感想としては、サッパリとした語り口で読んでいてなかなかに気持ちは良かったということ。
■アートの世界でもそうですが、「描きたいものを自由に描けばいい」と教えられ、その枠内で創作を続けている人がほとんどです。しかし、そういう人たちは結局、趣味の域を抜け出せずにその創作活動を終えるだけです。
まったくその通りだ! と思いつつその半面、でも生きていてよく耳にするのは「ほーんとポジティブ、楽しいことが仕事になったんす」とか「やりたいことをやってきたらこうなったんですよ」的な言説が、溢れていたりするので――正しく表現されないこと、すなわちそれは「THE言葉の帰結」だ、なんて思ってしまう。
■アート業界で生きていくなら、この世界のルールを一から十まで把握したうえで、しっかりとターゲットを絞り、“ターゲットに向かって弾を撃つ”というやり方をしなければ勝てません。
この著者の場合、カイカイキキなる集団を結成し、かつアトリエを寝床としつつ若手育成にも携わっているとあった。
■現代美術の世界というのは、絵のうまいエリートだけが目指すものではなく、セカンドオプションのエリアとも言えましょう。そのことをしっかりと認識している人たちに対しては、先をいっている者として、道しるべを示してあげたいのです。
著者は自らに「画力」」「筆力」というのでしょうか、そうした一般的なテクニックがないという自負に引きつけ、その技術がないならば違うアプローチで攻める――おそらくこの著者の表現する作品群にその特徴が出ているのだと思われる。
で、はじめ僕はようするにエンタメ的なアプローチを取るということなのかな?と思ったのだけれど、著者の談によると、まったくそうではなく、三百年後に残存する集団、あるいは葛飾北斎の『富嶽三十六景』などを例に出していることから、「売れればヨシ」というわけではまったくないのである。
■ぼくの意識は、世界の美術史に伝えられていく一枚を描くことに集中しており、そのために人を育てているともいえます。
そこで、この著者の作品を批判するひとの感情をかってに想像してみると、たぶんこのカイカイキキの作品や、その手法やモチーフなどは、まさしく売れるためのエンタメ作品にしかみえないのに、彼らは臆することなく、ビックマウスな主張をするので、それが気に食わない。もしくはそのビックマウスの裏付けとして、海外のオークションでちゃんと落札される。またその作品の価値が三百年後には落ちていることを、現時点では証明できない。また、この美術業界自体がどことなく腐っていて、この著者のやっているプロモーションが正当であると同時に、そう認めてしまっては、同類相憐れむ(美術業界に於いて)的な自己撞着の活動を認めることにもなる。といった類なのではと推察する。
そんなふうに想像すると是非にも著者を応援したくなる。がそのいっぽう、ぼくが若干ロマンチストなためか、アーチストと呼ばれる人には、ある種の「狂気」を十字架として背負いこんでもらいたいし、右手にはピストル、左手には愛を(@小林大悟)手にして、その不条理や悲劇を作品に見たいものだ、とも思ってもしまう。
■みんな、作家の人生、伴侶、時代、そして何より、作家の不幸に期待しているのです。
つまり、そういうことまでこの著者は見ぬいてもいたりした。
■ヒップホップアーティストのカニエ・ウェストが(……)スタジオ中をつぶさに見て回り、ぼくのアシスタントが仕事をしている様子などにも集中して見入っていました。そのうち、うちのスタッフたちに対していきなり指示しはじめたので、こちらが戸惑ったくらいです。
なにかマイケル・ジャクソンが日本のテレビ番組に出る際、その楽屋でケンタッキーフライドチキンを食って、そのカスを楽屋にポイポイと食い捨て歩くというエピソードをかってに思い出してしまった。つまり、この著書で、著者は芸術の世界とはヒエラルキーのいちばん下のポジションなのだ、とあるのだけれど、そうしたポジションに対する認識とはまたべつに、音楽vs現代アート、テレビタレントvs音楽アーティストとか、アメリカvs日本とか、たとえほんの一部にしか当てはまらない事例なのかもしれないけれど、ある種の「礼」がないというか、そもそもアーティストというのは繊細なはずなのに、オカシイじゃないかなどと、おもいつつ、とうぜんそういった振る舞いも経験からの計算づくなのかも?とか…… そう! だとしたら、それはそれで大胆にみえて窮屈で、保守的な世界だなという、大変さが窺えたりもした。
ともかく、そんなカニエ・ウェスト&村上隆の作品をググってみた。
このプローモーションビデオのアニメ画をどう捉えたらよいのか? 本人(カニエ・ウェスト)が出てこないというのはたぶん、僕はファンじゃないけれど、ファンからすると微妙なんじゃなかと思ってしまう。なぜなら、
つづいて村上隆とルイ・ヴィトンとマークジェイコブ
ちなみマークジェイコブをウィキペディアで引くと
マーク・ジェイコブス(Marc Jacobs, 1963年4月9日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク生まれのファッションデザイナー、および彼の創立したファッションブランドである。会社としてのマーク・ジェイコブスは1986年に創業した。
デザイナーとして最初に大きな契約を交わした相手が日本企業(Marc Jacobs、Marc By Marc Jacobsの代理店)であった事から、親日家であり「僕がデザイナーとして成功できたのは日本の消費者のおかげ」とコメントしている。
来日した際に草間彌生を訪ね、マカロン(=水玉模様)のインスピレーションを得た。
2003年春、ルイ・ヴィトンの「モノグラム」ラインで日本人アーティスト村上隆とコラボレートしたバッグを発表。村上隆の名前と、"kawaii(カワイイ)"という言葉が世界的に知られるきっかけとなった。
ビデオを見るとまあたしかに『サマーウォーズ』的な色合いがあったりして悪くはないけれど、ルイ・ヴィトンとアニメ画があわさったサイフとかバックは、画像をみたかぎりで言えば、お世話にもクールだとはいえないシロモノだった。もちろん、そうそう簡単には理解されないところがイイというセンスがあるのかもしれないけれど。
ちなみに最新作とおもわれるマークジェイコブなども画像検索で見てみた。そちらは割とノーマルのバッグやサイフなどであった。とするともともとが実験とか広告、いややはりクリエイトに徹するためということだろうか。
さらにマイケル・ジャクソンとスマップと松本人志の放送室