■電気羊2.0はピカソの夢をピカっと見る
- 作者: 山口裕美
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2002/10/17
- メディア: 新書
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現代アートにどう興味を持ちどう作品に接したらよいのか?
例えばぼくのような素人は。
そうしたような切り口でおもに日本のアーチストを中心に語られる。
『自信をもっておすすめする現代アートインデックス』
第九章では上記のような項目で、現代美術の「今」が具体的に紹介されており、自分としてはこの章がいちばんに面白かった。
ちなみに著者さんのプロフィールを検索すると
アートプロデューサー。
「現代アートのチアリーダー」として、現代アートの応援団を作るべくウェブページ、トウキョウトラッシュを主宰。
アーティスト支援NPO法人「芸術振興市民の会」(CLA)理事。e AT金沢99総合プロデューサー。
学校法人KIDI学園顧問。
とある。
というわけで前半は日本のアーチストや美術界における諸事情が紹介されていた。
アーティストが自分自身の完成作品を確認できる環境がないなんて何かがおかしいし、美術大学を卒業すると同時に自由に使える画材や道具がそろったアトリエを失ってしまうなんて何かが欠けている。巨大な作品をアーティストに簡単に依頼するよりも美術館が果たすべき役割はまだまだあるのではないか。
「現代アート」のアーティストだけが補助金や交付金で救済されるべきだという限定された問題提起はなされていない。でもそこをあえて勝手に書いてしまうと、ひょっとしたら「現代アート」のアーティストのみが優遇されてしかるべき、あるいは日本文化というアイコンに転用可能な存在は現代アートのアーティストであるべきなのでは、といった創作物とそのジャンルに対する階層付けが、著者さんのなかにはあるのでは、などといやに偏向して読んでしまった。もちろんそういうふうに読む(B層〈伏線です〉)と、面白く読めるからという意味で。
なぜなら、たまたまこれを書く時期にあわせて、静岡7区から選ばれた片山さつき議員の「初音ミクが死んだらお葬式しそうな風潮だからロリエロ見すぎで犯罪する若者も出るかも」といったニュースを耳にしてしまったためである。
名なしのソース
つぎの提起
外国のキュレーターは基本的に研究者で(……)キュレトリアル部門(学芸部)とマネジメント部門(日本にはない)は独立した別の組織になっている。
企画そのものもスポンサーの関係で共催となる大手新聞社やテレビ局の文化事業部が決定権を握っていることが多い。
このへんはよくわからない。というか最近ぼくが気にいってる語句で「キャリアポルノ」とか「フードポルノ」というものがあって、これはTwitterで有名な@May_Romaさんの著書『キャリアポルノは人生の無駄だ』で使用されているらしく(僕はまだ未読)、そしてこのポルノという概念が、僕のばあい、人様(ひとさま)の肩書きがネガティブな意味でポルノに見えるのだと、最近気づいた次第。おそらく女性が抱くであろう、ロリコンやイマラチオに対する同種の不快感と思われる。もちろんその自家内面の反応としては嫉妬があることは前提として。で、実際のそのポルノ的な活動をネットで探すと具体例ゼロの山。出し惜しみしているのかもしれないけれど、やたらと露出しているわりにつかめないことがほとんどだったりして。
つまるところ自称キュレーターを名乗るひとが「私キュレーターやっとります」と発しつづける以上、その周りには、けっして新しい転機など来ないように思われてならない。その根拠はなんだ?と問われると困惑するけど、たぶん上記のMay_RomaさんのTwitterなどに於ける発信力とかがそうなのかな?と思う次第。まああと佐々木俊尚氏や村上隆氏やちょっとまえの村上龍氏とか、ようするにアーティスト自身がキュレーターとしてやっていけるようになったっぽいというか、ピカソの時代はとっくに終わったというか、そもそも現代アートが好きなひとたち、そういう業界に携わりたいというひとの胸にある、かつてあった衝動や思いというのは、ある意味何かを裏切りながら進んでいるのでは、と。もちろん素人眼の勝手な言いたい放題の所感での話。
で、「おし。わかった。じゃあTwitterだな」ということで、やたらとロボットを使ったりして発信する人(たいていが、ポルノな肩書きの持ち主)がいたりして、そして今度はその「follower数」がそのまま新たなポルノ新作のようにして露出しているというか……
とても迂遠に表現すると上のようになるというか、望みとしては自称キュレーターの担うべき役割はすでに変わりつつある終わりつつあると……したい。
ちなみに『キャリアポルノは人生の無駄だ』を未読なため、ポルノという語句の使い回しがどうも正確ではないようなので、とりあえずGoogle検索していちばんうえに出てきたブログのアドレスを載せておきます。『不美人の力』さん。
で、静かに首肯するとしたらば、アーティストとして十二分に才能のある、これからまだまだ大化けするかもしれない、未知なる裾野とそこに育つであろう緑の原石が、日本にもちゃんとあるのに、なのに! その原石を磨くのに必須である「資金」がまわってこないじゃないかコノヤロウ、というところだろうか。
現在進行形である「日本の問題」、またあらゆる分野に「共通の問題」、いや、もはや普遍的にもなりつつある問題、スーパーフラットな由々しき問題、そして響きとしてもう耳タコ的な諸事情じゃないか、と何度もなんども首肯しながら読んだ。もちろん本意となる成分の半分くらいはちがうのだけれど。
んで、こうした不条理で保守的かつ不具合に違いないドメスティックな環境の壁を、自力でこじあけんとしキックし、破壊し、そして実際に世界市場への扉を「ズ、ザザザザザ」と、こじ開けたのが、こないだ読んだ村上隆ひきいるキキカイイなる人達なのかなと推察する。
【↑作品への感想】正直、どうもよくわからない。タイトルは『ズ、ザザザザザ』で、『semen』ではない。作品を「冒涜する」つもりはさらさらないですが――という「断り」を入れてもまあおかしくないところが、たぶんいわゆる美術に対する僕の主観であり、その主観から見ると様々な美術にまつわる形式が、おそらく僕の主観と他の人達との主観もわりと近いのではと思っていて、ようするに他の表現物と比べて、美術系のものというのは経過した時間に比例して評価がガッチリしていて、その偏りがちな主観というのを疑いもなく受け入れてしまう安心感や、その安心への欲望が……なんというか日本人の土地にたいする固着に似てそうだな、というのを今書いていて思った次第。
またなにをもって天才と評するかはそれぞれだろうけれど、普通一般に表現されてそうな美術のもたらす効果――感動、癒し、痛み、開放感、悲劇等々があるとしたら、カイカイキキらの成したことは、そのことによって人が浮かべるであろう効果OR想像は、そうとうなものだな、なんてことも改めておもいながら読んだ。野茂やイチロー的というか。
村上、奈良の個展を行った東京都現代美術館と横浜美術館が彼らの作品をコレクションしなかった、という事実である。
(……)アメリカで大都市を巡回した「スーパーフラット」展が話題になり(……)日本のマスコミはそのことを報道しなかった。
第一、アメリカにしろフランスにしろ、イギリスにしろ、自国を代表するような活躍をしているアーティストの代表作は国外に逃したりしない。そうしたアーティストの一級品は必ずそのアーティストの国の現代美術館にあるのが普通である。
ぼくがB層なため、そして故に美術を好むひとが周りに皆無なため、まさしくB層的な実感としては、現代アートや美術に対する需要がたいへんに弱いと思うよ、といった所感をもっているため、上記のような深刻な問題を目にすると、ひとたびは強い憤りを持つものの、果たして美術館というのは、今の時代どうなんだろう?とも思ったりもした。
ちなみに【B層】とは? Wikipediaによると以下
2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。
スリード社の企画書では国民を「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。
B層には、「主婦と子供を中心した層、シルバー層」を含み、「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層、内閣閣僚を支持する層」を指すとされる。
上記の企画書がネット等を通じて公に流布されたため、資料中に使用された「IQ」という知能指数を示す語や露骨なマーケティング戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた
そう当時、「自民党をぶっ壊す」という小泉のアジテートには惹かれた。それなら「壊してくれ」と。
またこれに関連しては自戒もこめて『戦争広告代理店』高木徹(著)を読みもした(ユーゴスラビア、セルビア人、クロアチア人)。
さらに広告会社「スリード」は検索してもうまくでてこない。というか疑惑とか当時のPDFとか……
とまあ、B層やスリードはともかく、いま僕の頭にあるのは、よく言われることとして
「今や! 一億総クリエイター時代が到来!」といった惹句がよぎったりする。
もともと「天界から贈られた才能」と思われていた不可視な何かが、最近はそれこそカイカイキキのいう「スーパーフラット」じゃないけれど、ひとまず目に見えるカタチに「する」というフラットな段階にまでは、素人も追いついているのでは?と。
もちろん足りないのは「凡人では考えられないような発想」だったり、宇多丸のいう「けーゆう、えふ、ゆう=工夫〈kufu〉」というスパイスが絶対にいるのだろうけれど。
なのだけれど、本書ではいくつかの美術館のアドレスが付されていたりして、それはそれでとても参考になってありがたい。というか、今からアクセスしてみる次第。
■グッゲンハイムミュージアム(guggenheim museum)
ウィキペディアによると4つもある模様。
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館:ニューヨーク市
ビルバオ・グッゲンハイム美術館:ビルバオ
ペギー・グッゲンハイム・コレクション:ヴェネツィア
ドイツ・グッゲンハイム・ベルリン:ベルリン
ちなみに本書ではこれら美術館の特徴(見せ方や運営や試み)もちゃんと紹介してありました。
■それから著者の「トウキョウトラッシュ」というサイト。
サイトをGoogleで検索したけれど存在せず、かわりに一冊の本になりましたとあり、でてきたのがこちら↓
- 作者: 山口裕美
- 出版社/メーカー: 美術出版社
- 発売日: 1999/02
- メディア: 単行本
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■それから読んでいて気になったのが、
赤瀬川原平「宇宙の缶詰め」 1963年
Wikipedia:このコンセプトは最終的に、缶詰のラベルを缶の内側に貼って宇宙全体を梱包したと称する「宇宙の缶詰」に至る。
■それからマウリツィオ・カテラン
とまあ、読みどころが満載であった次第。
そして、メモ的にいちばんに面白かった9章もここに載せようと思ったけど時間がないので断念。
なぜ面白かったのかといえば、やはり砕かれた文章だったように思う。たまに美術手帖やそれっぽいアート系のサイトを目にしておもうのは、やはり三島由紀夫や浅田彰にしかできない文章テクを用いようする表現だったりするから、なおのことだったりして。
また、最近はそういったサイトを見ずともTumblrとかPinterestなんかがあったりして自然にアートらしきものに触れられる(アートポルノという言うのでしょうか)ので、じっさい世の中はうまくできてるもんだと、して終わりたい。