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東尾張乱射事件

【次回の記事予定】「お金」で「愛情」や「友情」が買える『脳内麻薬 ドーパミンの正体』を読んだ感想。

NUDE or Higashi

Owari Ranshajiken

ざわざわざわざわ

■タモリの分数コード


タモリ論】樋口毅宏(著)

むかし、いいともにオザケンがでたとき、タモリがこう言ったの。『俺、長年歌番組やってるけど、いいと思う歌詞は小沢くんだけなんだよね。あれ凄いよね、“左へカーブを曲がると、光る海が見えてくる。僕は思う、この瞬間は続くと、いつまでも”って。俺、人生をあそこまで肯定できないもん』って。あのタモリが言ったんだよ。四半世紀、お昼の生放送の司会を努めて気が狂わない人間が!


 薄めの新書だけれど予想をこえて面白かった。
 とはいえ、樋口毅宏氏の小説『さらば雑司が谷』の中で展開しているのと同種の「あっと!」言わせるタモリ論が、この書物にふんだんとあるわけではなかった。たぶん小説で触れられる考察が、より深く感じられてしまうのは「小沢健二」というアーティストの存在がすごく大きいように思う。



※きょうPVを初めて見たけどこれはもう外人だなと驚愕した次第。んで、さらにこうした色あせない音楽があるいっぽう「表のキャピキャピした世界」ではサザンオールスターズ小室哲哉とか秋元康などの消費されるだけの音(ネガティブな意味で)が「あった」のはよいとしても、それら消費されるだけの音(良いポップスという意味で)が昨今(さっこん)、アイドル流派にあわせて小室・秋元らの才能をいまいちど再評価するというのはどうもねという感がある。実際にその再評価のどこをどう腐したらよいのか上手く言えないけれど、現在低迷している業界の中で売れているからというような理由で過去作まで評価してしまおうという勢いだけのような気がしてならないから。というのもそうしたビックセールスのポップスの裏にフリッパーズギターがあり、さらにその裏にRCサクセションやらタイマーズが反権力を奏でて発売禁止となり世間から冷笑(中古CD¥100)されてもいたという事実。それなのに今回の原発事故により彼らの曲が事故をきっかけに注目され評価されるというのも珍妙な気がしてしまったりするから。ちょうど忌野清志郎が亡くなり突如として語られる伝説と同じような調子で。じゃあどうであればよいのかと言えば申し訳ないことにそれも上手く言えない。ただ、本日お昼にみたNHKドラマ『あまちゃん』にある台詞で宮藤官九郎がアイドルとは何か?というのを小泉今日子の口から「歌のうまさや可愛さだけでは決まらない」それがなんであるかを「知りたい」と言わせており、そのすでに『あまちゃん』をアイドルにしてしまっている現実の中にあるドラマの中でさえ謙虚にもそのようにある種の宣言のごとく放たれた台詞に痛くに納得してしまったためである。


小沢健二ウィキペディアで引用しようとしたが項目が多すぎで断念)
 元フリッパーズギター。父は巨匠小澤征爾。活動拠点ニューヨーク。相方はコーネリアス
 この天才小沢健二の楽曲のコード進行などをいちいち分解したことは僕はない、のだけれど、分解マニアの友人のいうところによるとどうも複雑怪奇らしいともいうし、また、TBSラジオ『LIFE』でも前にオザケン特集をやっていて、そこでオザケンに対して一家言あると思しき自称マニアどもが、彼をあれこれ崇拝している言説がこれまたもっともらしくて、その限りでいうならばどうしたってオザケンという存在は、ある種のカリスマ性をもって、なにごとにも作用すると思われてしまうというわけで、そうしたことの考察はとても僕の手に負えないので、話をタモリに戻すと、この新書では赤塚不二夫とたけしとさんまが比較参照されている。しかも参照というにはタモリ論とほぼ同じ分量で特にたけしとさんまは書かれており、タモリというタレントの全体像をうまく測れないため、その周りの景色を描いてみせれば、自然とタモリが浮き出るでしょうという感じだった。



 またタモリを掘り下げる際のおもなスポットも『笑っていいとも』を中心に語られており、僕が期待していた『タモリ倶楽部』系の話はほとんど無かった。僕的にはタモリと音楽という分野が知りたかったりした。そのあたりの活動がいまいち検索してもヒットしないからである。とくに坂田明氏との関係とか、なぜマイルス・デイビスの『マイ・ファニー・バレンタイン』をファイバリットにあげているのかとか。そうした好事家としてのタモリに興味があったりしたのだけれど、命題のほとんどが「なぜあの『笑っていいとも』を毎日やり続けていけるのか?」という線での言及が多かった。




 よほど悲しいことがあった時、僕もこれを聴いて枕を濡らす。そのためのフィバリットな1枚として重宝している。一曲が長いため沈鬱時、カラダを横たえて聴くにはちょうど良い。またアップされている他のバレンタイン音源とくらべても、上品かつ控えめな音の抜けがいいように思う。


 最初聴いたときはロバート・ジョンソンやPファンクのアルバム同様「失敗した」と思った。ところが上記のマイルス版バレンタインを聴くうち、ひょっとしてこちらのほうがいいのかもしれないと今では思うようになっている。ただ僕の持っている版はなにやらあとからギターがかぶせてあり(ステレオ効果)、それもまた香ばしいといえばそう言えなくもないけれど加味されたぶんの不足感があることも確か。



 その他タモリクレージーキャッツ共演の動画を発見したがいまいち。あと中国語コントとかNHKアナウンサーの真似などもいまいち。このイマイチ感を楽しむひとがいるのかもしれないが、楽器を持った芸ではたしかに谷啓のほうが何枚も上手に見えてしょうがない。


タモリ論 (新潮新書)

タモリ論 (新潮新書)


さらば雑司ヶ谷 (新潮文庫)

さらば雑司ヶ谷 (新潮文庫)

『さらば雑司が谷』の感想を過去に書いた記憶があるため、ちきりんブログみたいにリンクできないものかと辿ったがなんにも無かった。こういう時のために「はてな」を使っているのに至極(しごく)残念。まあいちいち探すほどの感想でもないけれどいざ無いとなると読みたくなるのも人情で。というときの支えがバカボンのパパのナンセンス「これでいいのだ」などと、短絡思考がいま自分の頭にあるのだけれど、この短絡思考をいざ社会に生息するある種の人たちに向けると「おおいに信用を失う」のが現実の真実だったりもするので、それゆえ人(孤独な人)は、タモリがかもすナンセンス臭に惹かれ幻のコードを見るのではないだろうか、とひとまず思う次第。



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