『二郎は鮨の夢を見る/Jiro Dreams of Sushi』デヴィッド・ゲルブ (監督)
【感想】
見始めて最初の五分くらいは、登場人物が寿司職人、悪く言えば素人の老人(85)ということもあってか、時間というものが、じつに地味に、しずかに、たんたんと、進行するかんじで、このチョイス!よもや失敗したのか?と鑑賞しながら、自問したりする雑念が生まれさえするほどでした。
ところが、お寿司のネタが、
一貫、
一貫、
また一貫と紹介されるにしたがって、
それまでただの老人にみえていたカウンターの奥の男が、なにかしらのオーラを放ちはじめ、
そしてついには、
ミシュラン界隈の紳士、お米卸の業者をはじめ、様々なひとたちからの賞賛、証言などがつぶさに語られるうち、その老人が稀少な職人であり、いつしか、神にさえ見えてくるような仕掛けでありました。
※いいマグロは脂に差異があるのでなく、赤身に現れるそうです。なので好きな寿司ネタは?と聞かれて「赤身が好きです」と応じただけなのに、「そりゃ憐れだな」と、自称グルメさんににバカにされたら、まず口を大きくあけて舌の味蕾について説明してから、↑の赤身がいかに重要であるかを声にしてみたいと思います。ちなみに良いマグロというのも、10本のマグロがあったら、そのうちの1本しかないそうです。
完全予約制でお酒もNG。一食最低が3万から。すべてがおまかせの世界。
約15分ほどのことだとありました。
最初は「15分で、3万!冗談じゃないよね 」と見ながら本当に声にもだしたのですが、
見ているうちに
実際に寿司が食べたくてどうしようもなくなり、
あなごの登場を見た時点で、
「死ぬ前にいちどはたべておかなくては」と、最初の気持ちがすべて覆るほどでした。
【難点】
ただ時折、スタッフにそう言わされているのだと思いますが、ほとんど意味をなさない単語の羅列「努力」「積み重ね」「忍耐」といった、ライトな台詞の挿入が唯一の難というば、そうだと言えそうでした。
ここに描かれている成功というものは、それはある個人が成功したというより、たまたまそこに築地があり、その築地に新鮮な魚が入る素地があり、またそれら魚を選ぶ市場のひたたちがあり(マグロの選定はマグロ屋さんじゃないとわからないと言っておりました)
そういった複数の要素があって、ようよう成り立つというのが、見ていてよっくわかりました。
もし、無理くりになにか教訓めいたことをひきだすとしたら、お寿司を食べたひとは間違いなくひとりの老人の握ったものによって、幸せにしてもらっていて、
だからこそその人を賞賛し、また己の感じた高揚感からか、かならずや彼もまた同じく幸せであるにちがいないと判断しがちである、ようは想像をして楽しんでいる、ということのようにおもいました。
といったように、食べたひとは「なんとなく幸」ではあるけれど、そこでピタと完結している。
ときおり、われわれの「幸」は「お客さんの笑顔です」といった話もよく聞きますが、どうにもうさんさくさいです。
実際この老人を見ていると「イイ寿司をだすにはイイ味覚を知らなければならい。その為の舌がいる。絶対的な舌がいる。努力で舌は完成しない。生まれつきのもんだ」と。そして「まだまだ上があるはず」「そうしたいんだ」けれど「環境的なことからそれが困難になっている」ともおっしゃっており、その台詞からうかがえるのは、どちらかというと「お客さんの笑顔」ではなく、狂気ともいえる求道心のごときものであるように、僕には思えました。
だから、わたしのため。消費者のために、こんなにおいしい寿司がある。というわけではなく、ある狂人のつくった寿司、もう、わがまま放題の、いささか問題のあるやり方、狂人のルールに、たまたま参加したといいうより、すすんで参加した。ひとは狂ったルールにどうしようもなく引きつけられるのではないかな?などと僕なんかは想像しました。
で、そういう狂っているとおもわれる「稀」な事象から、そこに一般解のごときが導かれ、あげく「ものづくり」やら「イノベーション」などと喧伝されていることに、どうもしっくりこない自分の反感がこのような感想になったのだと、いま感じています。
もしかして悪口を書いているのかもしれないけれど、映画をみていてすくなくとも円満そうではなかったです。修行にきて辞めていかれたひとの悲話や、現に修行しているひとの深いほうれい線(まだ若いのに)あととりのかたの頭頂部にうかがえる肌色など、穏やかでない空気はそれなりに立ち込めていました。
なのであるひとつの教訓としては、なにかとてつもない「幸」に遭遇するような機会があったばあい、その裏にはとてつもないダークな存在があると疑ってみると、よりその「幸」に深みが増すような気がしたしだいです。
供給するひと、
ばくばくと消費するひと、
のしあわせ。
そもそもハッピーという単語にあてた訳に「しあわせ」という概念だけで事は足りるかのような解釈は、不親切ではないかと、さいきん気づきた気がします。
音声にした場合の使用例として、ひと対ひとの応答文、そのなかでしか意味をなさないんじゃないかな、と。
「幸せですか?」
「はい。(わたしは)幸せです」と。
なんにしても、とてもよい時間を過ごせる映画でした(合掌)。
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