東尾張乱射事件

【次回の記事予定】「お金」で「愛情」や「友情」が買える『脳内麻薬 ドーパミンの正体』を読んだ感想。

NUDE or Higashi

Owari Ranshajiken

ざわざわざわざわ

■まつたく予想だにしていなかった靖国を読んだ

靖国坪内祐三(著)


 文庫の解説が野坂昭如(のさかあきゆき/作家・歌手?)氏でした。
 野坂氏の祖母が、東京の榎本武揚(えにもとたけあき)邸へ女中見習いとして過ごした時期があったそうです。その祖母から聞かされた話を靖国へ展開していました。
 ついでに〈のさかあきゆき〉で動画検索したところ、ヤクザ事務所に凸インタビューというステキな動画があったので貼りました。ほんとうに人を殺めているかもしれないひとたち(武闘派)の狂暴さは、やはり映画に出てくる役者とは一味も二味もちがうなあと感心しました。





 たしかに!



 たぶん著者さんも「靖国」に興味があったわけではなかったように読みました。それほどの興味はないけれど資料を掘っていくうち、イメージされている像とは真逆の神社のあり方にムラムラとした。その熱量が、文系オタクである著者の"良心"を奮い立たせたのではないかと、僕なんかは解釈しました。
 ここさいきん、イデオロギーの左右に関係なく、日本的なものが下品なひとたちに囲われている。軍服を愛するとか、菊の紋を愛でるとか、統率美を愛するとか、フェチとしての武士道愛とか、個人的な嗜好世界はぜんぜんにいい。そうではない人たち、ある種の美しさを思想に翻訳したがるひとたちが、靖国を語るとみせかけて戦争を語る、とみせかけて政治を語る、とみせかけて差別を正当化する。そんな人たちも、ある一定数いれば商売になるからその頭数を金に換算しようとコジル(乞食)ひと(文化人)がありえないほど出てきた。もちろんそう云うひとたちの発信する言葉や書物はじっさいに手にとって数ページ読むと、たいてい「悪者」がでてきて、抽象的で無責任な未来予想が、改行まみれの文章でものされている。でもバカ売れしているらしい。物書き家業のひとは、他人がバカ売れしていることをあからさまには悪くは言えない。物書きなら書くしか無い。そんなおもいがつまっているように思えてならないです。


  


靖国 (新潮文庫)

靖国 (新潮文庫)





読了するのに2年くらいかかりました(放置含む)。
 




 なぜ2年なのかといえば、





しまちどりつきのしらなみ/島鵆月白浪〉








 この長ったらしい歌舞伎のタイトルを筆頭に、明治の資料や文献からの引用がおおく、ふだんTwitterなどの簡略化された文字ばかりを追っているせいで、漢字の塊(かたまり)を目にすると、本をそっ閉じするようになってしまいました。



島鵆月白浪〈しまちどりつきのしらなみ〉というのは、黙阿弥(もくあみ)という歌舞伎の原作者が書いた戯曲みたいなものでしょうか。




 明治14年(1881)に初演。全5幕。最終幕の舞台が「靖国神社」ではなく「招魂社(しょうこんしゃ)」となっているそうです。当時のひとからすると招魂社という呼び名のほうが親しまれていたとありました。

 粗筋は一言でいうと義兄弟もののようです。鳥蔵(とりぞう/もと盗人)が、千太(せんた/盗人)を、神社のまえで改心させる、

 ではなぜ黙阿弥はこの舞台を靖国にしたのか?著者はその解釈を三名の学者説によって紹介していたのですが、いずれの説にも納得がいかず、あれこれ伏線を挟みながら、知られざる靖国神社の世界に入っていくのでした。

 ちなみに明治14年でぐぐると『明治十四年の政変』というものがあり、憲法をドイツ式(ビスマルク)にするかイギリス式(議院内閣制)にするかでもめた事件があったようです。その結果ドイツ式の大日本帝国憲法になったようです。



 


土地にやどる記憶(自霊)のことをゲニウス・ロキというそうです。靖国と似た存在、まず日本武道館にみるゲニウス・ロキについてがものされていました。





ビートルズの公演によって武道館(日本的なゲニウス・ロキ)がレイプされてしまう的な感じでしょうか。そのカウンター(良心)として、読売の正力松太郎ビートルズの武道館ライブに反対したとありました。リベラルっぽい大岡昇平までも「右翼の反対意見にちょっぴり賛成」と。結果、ビートルズどころか、ジャニーズのTOKYOがデビュー後最短で武道館公演をしたともありました。もう、つつましい武道館はいない。すぐに股をひらくビッチになったのだ。総じて、「ゲニウスロキの喪失感」という表現を、今後の人生で活用したいと思います。  




【感想】
 読めてよかったです。靖国に関連して長州藩を描いた小説をあれこれ併読したことでよけい"ぐっ"ときているだけなのかもしれないですが、定価590円の文庫としては、そうとうに濃厚でした。
 


【著者のただならぬニート臭】
 これまで自分は靖国を訪れたことがないという事にたいして、なんの不満も感じていなかったのですが(注/余談あり)、読後、著者の生活空間、散歩をするコースのなかに靖国神社があるという暮らしが、すこうしだけうらやましく思いました。
*散歩をするという行為がこの人の場合、純粋趣味としているのではなく、明治文豪なんかの影響をうけて、その趣味を愚直に模倣しているような気がして、もしそうであるのならそれはそれでほっこりするし、またイデオロギー的な売れ線考察をぬきに描ききっており、というより、むしろ靖国にまつわる右翼的な主張や思想やコスプレなんかもその題材が靖国であるかぎりエンタメ要素のひとつとして(相撲、プロレス、小説、歌舞伎、サーカス)とらえるのが、この歴史の浅い神社の楽しみ方なのだろうとかんじました。




Googleに未だみつかっていない画像たち】
 著者が馴染みの古本屋をまわり、他では見ることのできない稀少な画像(上質な桐の箱に入っていたようです)を添付していたりする力技がとても良かったです。
とくに明治期最大の軍事スペクタクル、凱旋観兵式のものが圧巻でした。

 そんな靖国神社が九段下にある理由は、暇つぶしにぷらっと散歩するためだけの存在や空間ではないことはまちがいないけれど、この本で紹介されているというか、推奨されている視点での靖国というのは、日本のなかの外国、言い換えると自分が外国人になってこの国を観光しているような気分にさせてしまうところ、私的にそう捉えるべきだと言っているように僕は読みました。




 


靖国とはどんな神社なのか】
 もとは靖国ではなく東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)と言ったそうです。
 祀られているのは、官軍戦没者蛤御門の変だと会津藩/戊辰戦争だと長州藩)。
*なぜ祀られる必要があるのだろうと考えた場合、ふと浮かんだのが、井沢元彦の『逆説の日本史』パターンといいましょうか、呪や祟(たたり)を沈めるため、とりわけ不幸な死に方をしたひとだからゆえに祀る必要があったんだなというパターンがここでも当てはまるなと勝手に解釈しました。
 ただ、井沢元彦パターンだとあるていど地位のあるひとを祀る(鎮魂)のが筋なのだけれど、今回のばあいは長州藩士たちの鎮魂。尊皇攘夷の志士たちというと聴こえがいいけれど、じつは関ヶ原の戦いで破れた武士――身分を落として百姓となった末裔たち。その百姓たちが数百年後、維新で武器を持つことを許され、攘夷革命に参加し、いまの日本を創った。そんな彼らの死後の扱いとしては、ほんらいなら武士と百姓は分けられるはず。だけれど長州藩はそういったことをしなかった。(平等や日本という概念は、長州藩どくとくのものらしいと別の書物で読んでびっくりしました)

  そんなわけで出目の関係なく祀ろうというのが招魂社であると···
 (注)ところが、魂を呼び集める招魂斎庭というところは、現在、誰も振り向きもしないただの駐車場になってしまっているそうです。その無情ともいえる扱いの衝撃から、著者さんはいろいろ調べることとなったようです。
 
 
 またちょっとズレますが朝日の誤報記事で話題となった従軍慰安婦のかたも「前線では軍属に編入された場合もあるので祭神に入っている」そうです。
 なのに「大東亜戦争で亡くなった民間人は祀られていない。ほんとうはそのことに怒るべきなんですよ」といった記事を読みました。
  


【余談:伊勢神宮

(注)靖国ではなく、お伊勢参りはしたことがございます。というか以前に、東京在住のTOKYO自慢たらたらの男に日本の神社の王様は「明治神宮だよ。そんなことも知らないのか? 常識なのに。無知だな」などと、上から目線で語られ、こちらとしては立場上、「そんな事実、まったく···知りませんでした」と答えるという、じつに屈辱的なシーンがありました。つまりちょっとねじくれた自分の鬱屈があり、その冗長マンにたいする鬱屈が、なぜか東京の靖国神社が話題になるとみょうに思い出されざわざわするという···





東京九段坂





【九段下を選んだ、戊辰戦争の指揮者、大村益次郎(おおむらますじろう)】
 木戸孝允桂小五郎/長州藩)は上野を推したそうです。たいして大村は九段下を推したようです。その理由は、そこがもともとは火除地であり、旗本の屋敷地である=土地の記憶や歴史がないためとありましたゲニウスロキがゼロ)
 また、その地(高台)を軍事的な最重要地区にするため、道路拡張をも指示していたとありました(実際の拡張は500年後)。現在の三倍の広さがあったようです。






契約社員(武士)だった大村益次郎という男】
 たいへんなブサ顔だったようです。画像検索してでてくるのもエレファントマンみたいな感じのものばかりなので、やむなく、いちばんましな銅像となったものを選びました。けれどちゃんと妻をもらい(見合い)、なんとシーボルトの娘(ハーフ美人)ともただならぬ関係にあったようです。



画像はシーボルトの娘(イネ)の娘(楠本 高子/くすもと たかこ)さんというそうです。新選組に萌える女子の気持ちがわかるような1枚だとおもいました。
シーボルトの弟子にあたるひと(宇和島藩)が大村の師匠みたいな関係にあるようでした。



 大村益次郎と名乗るまえは、蔵六(ぞうろく)といい、貧農すぎる村医者の息子で、学問好きのために東京へゆき、オランダ語を学ぶ(召し抱えを目的にして)。そののち、軍事技術翻訳の才を買われ(宇和島藩に買われ)、その才は続いて幕府にも承認され、食うには困らない給与を得るようになる。ところが蔵六の出身である長州藩からやっと声がかかるものの身分は足軽ていどの扱いで(仮雇い)給与面では、食うのにやっとの実入りに戻ってしまう。






そんな大村益次郎は、靖国が建立(こんりゅう)された同年、おなじ長州藩の声高な攘夷主義の集団によって亡くなる。
建立←この「こんりゅう」が耳慣れないので検索したら、お墓を建てた人物とありました。だとすると微妙におかしい表現だとおもったのですが、残りの人生でつかうことはなさそうなので······

















海外メディア表記だとyasukuni war shrineというそうです。







靖国での競馬ショウ】


日本で最初の競馬がなんと靖国だとありました(主催日本)。




【相撲と靖国


藩のお抱えであったころの力士の地位はひじょうに低く、その地位向上のために、維新では力士隊(りきしたい)となり、消防隊(しょうぼうたい)にもなり、そして江戸時代にはなかった天覧試合というものがのが300年ぶりに復活し靖国神社で開催。

 またその後の出来事。小錦(こにしき/ハワイ出身)が本場所では、「相撲は国技だからね!」とか、「外国人力士はふさわしくないのでは?」など、一部の自称愛国保守から問題視されつつ、そのいっぽう、靖国で開催された奉納相撲という土俵では、そのふさわしくないと批判された当の小錦が大一番をブっキメて大喝采を受けていたという······ そう、それこそが靖国であると···
http://kanjinchou.blog.ocn.ne.jp/photos/uncategorized/2014/04/04/img_4689.jpg




【プロレスがみれたのかよ、靖国


もと力士で、半島出身を差別された力道山が、プロレス初の奉納試合のために靖国に現れる。といっても現役プロレスラーではなく、レフリーとして。しかもその試合というのが小人プロレス。その試合をジャッジする。満員御礼を受けたともありました。



http://twitpic.com/9xexsn










キッチュな軍人会館】

 西洋ふうの建物のうえに、瓦屋根がのっけてある建物を帝冠様式というそうです。
 霊柩車もこうした帝冠様式のながれで誕生したようです。
 名古屋市の県庁と市役所もこの帝冠様式になるようです。けれど、もっと有名なのはお役所の地下にある食堂らしく、モーニングはトースト、茹でたまご、サラダで330円。ランチ弁当は300円だとありました。すぐとなりの名城病院ランチもすごいと聞いていたので、ついでに検索したのですが、ガセねたでした。





愛知県庁本庁舎。とても荘厳で立派なのですが、じつは名古屋城の外堀のなかにすべての主要庁舎(市役所も裁判所も国立病院も······)が余裕でおさまっていることをおもうと、その昔の城(しろ)のスケールの大きさに感嘆しておくほうが正しい気がしないでもないです。





【モダンと謳われていたらしい野々宮アパート】

 土浦亀城邸がモダン建築として注目されたようです。二階がアパートで一階が写真館。
 現代の感覚で見るとまったくモダンに見えないですが、たぶん↑の軍人会館とこの野々宮アパートが向き合い、その奥には靖国がある異様さというところでしょうか。





『道路と土手と塀(切通之写生)』岸田劉生
西洋絵画でも無い。かといって西洋を模倣しただけの日本絵画でも無い作品として、当時のひとには衝撃だったようです。なぜこの画が靖国と関係しているのかは、僕もうまくつかめませんでした。ただいろんな媒体でこの画が大正時代の象徴のように使われているので、きっととんでもないことなのだろうと想像をつけるしかないです。







日露戦争後のスペクタル記念祝典と合祀】

3万人以上の隊列を天皇が閲兵(凱旋観兵式)。
15,7キロメートルの隊列。
野戦砲281基、
要塞砲178基、
1235本の軍刀と槍、
7万丁の小銃、
2000台の荷馬車。
六晩にわたって灯されたイルミネーション。

と、同時に戦没者2万9千9百6十名の合祀(臨時大祭)

http://meiji-meisho.at.webry.info/201407/img1_1.140590687695014089228.html
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1009588675.html





【文学作品の設定として/この世でもあの世でもない場所】

靖国が設定のひとつとして出てくる文学作品が多数あげられていました。以下は抜粋。
夏目漱石我輩は猫である』『三四郎』
二葉亭四迷浮雲
宇野浩二『苦の世界』
川端康成『招魂祭一景』
色川武大『九段の社』





http://blog.livedoor.jp/app884p/archives/52294711.html


【上野にかわる新スポットとして、靖国の灯台】






以下の小説を併読しました。
吉田松陰高杉晋作を描いた『世に棲む日日』1〜4巻

世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)

世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)

や、



大村益次郎を描いた『花神』上中下

花神〈上〉 (新潮文庫)

花神〈上〉 (新潮文庫)



長州藩の(架空のヒットマン/天堂普助)を描いた『十一番目の志士』上下



土佐の山内容堂、薩摩の島津久光宇和島伊達宗城、肥後の鍋島閑叟を描いた『酔って候』

酔って候<新装版> (文春文庫)

酔って候<新装版> (文春文庫)




 などの小説を、


大村益次郎を全くしらなかったため、これはまずいとおもい併読した結果、




吉田松陰(よしだしょういん)が好きになりました。




【性欲をおさえるために肌に刃を入れ血を抜く師匠に衝撃をうけたDT(童貞)の英雄 吉田松陰
 もっといかめしい老人かとおもっていたのですが、享年30歳。所作はまるで婦人のようだとありました。わずか3年ほどの松下村塾でも上下の関係を厭い、訪れるひとと同志・友人の関係とするのを好み、投獄された牢のなかでも淫売な女性や盗人になにがしかの才をみつけては弟子入りしていたようです。逆に、そうやって誰にたいしてもそのひとの良点をみつけこころから信頼してしまう癖があだとなり、自分の未遂罪を幕府役人にしゃべるどころか、危機意識からの倒幕思想と幕府批判の大演説をして命を落としてしまったようですが······(安政の大獄
 また、そんな人柄を大事に思う長州藩の"やさしさ"として、処刑される見込みの高い松蔭を、その身分(脱藩もしている)にはそぐわない華々しい伴と人数をかけて牢に送ったとありました。
 また、処刑されたあとも松蔭を慕う長州藩のものたち(桂小五郎伊藤博文)が手分けをし、獄員に金をわたし、遺体をこっそりひきとり、鼇(かめ)に全裸でまるめられていた松蔭を皆で洗い清め、髪を結い、やはり脱藩身分の高杉晋作が指揮のもと、徳川将軍家代々の廟所(貴人の墓)のある寛永寺の、将軍専用の御成門の橋を、聴衆が不安そうに見守るなかわたるとう事件があったようです(御成橋騒ぎ)のちに幕府によって墓も建物もくだかれてしまう。



吉田松陰ブログ↓
http://www.yoshida-shoin.com/monka/takasugi.html










■それから新書『靖国神社島田裕巳(著)

靖国神社 (幻冬舎新書)

靖国神社 (幻冬舎新書)

おさらいとして読みました。
引用が多く、キーワードも散漫で、ちょっときつかったです。


靖国の起源とは?について】
東京招魂社には建立の"前史"があるといい、次ページでは引用文を連ねて"起源である"とも言い、それが"神道式の葬儀"とあったので、ああ僕が読んだ↑の『靖国』はまちがいだったなと一瞬おもったのですが、いまこうして書いてみて3つのキーワードがいまはじめてすっきりしたところです。志士を祀った神道式の葬儀というのは、東京招魂社が最初なのではなくて、京都で行われた以下のものであると。


1863年。京都の霊明神社にて津和野藩(島根県)と長州藩など66名による尊皇攘夷の志士の霊を祀った。
1864年。京都の八坂神社の少祠で霊を祀る。
(注)さきほどチェックしたら、1865年に長州藩が下関桜山(さくらやま)に招魂場をもうけたのが先鞭である(吉田松蔭の墓を中心にして)とあったのですが、このように↑年代順でみると「いや三番目じゃないの?」とおもったのですが、たぶん神葬祭(しんそうさい)という葬儀の意味では三番目だけれど、招魂社という意味では最初なのかなと――そう理解するしか手がないです。このようにこの新書はつめが甘いのです。
(注)さらに整理チェックしてわかったのは、京都のものは「安政の大獄」と「桜田門外の変」。東京では「鳥羽伏見の戦い」以降のものということがわかりました。ほんとツメが甘いです。






【捕虜となったのち生きて国に帰るとどうなるか······】

 空閑少佐(くが・しょうさ)の場合。

中国軍に包囲され、激戦のなかで重傷を負ったため、捕虜となる。

 名前は忘れましたが戦後グアムで発見されるまで、ずっと森にこもっていたひとを思い出しました。たぶん自身の命というより、自分が生きて帰ると家族に迷惑がかかるからという配慮があったのかなと想像しました。

空閑昇(くがのぼる)少佐である。

空閑少佐の留守宅には石が投げ込まれたり、自決を迫る手紙が送られてきたりした。ついには、陸士の同期生からも自決勧告が下され、空閑少佐は3月28日に戦地を弔いのために訪れたとき、その近くで自決した。

ところが、

このことがニュースとして伝わると世論は一変しその死を賛美する声が高まる。
わずか10日後には『散りゆく大和桜 空閑少佐』という短編映画が封切られる。



『散りゆく大和桜 空閑少佐』(音源レコードがヤフオクで370円でした)



そうして昭和九年に合祀。


いっぽう、空閑少佐と同く帰還した西尾甚六(にしおじんろく)予備役少尉のばあい

9ヶ月後に自決しているのにもかかわらず、合祀されず。

 戦争に行って帰ってきたらいわゆる武士道精神的な安っぽいことでバンバン叩かれて、あげく自決しているのに加えて、合祀もなし。百歩ゆずってべつに合祀されなくてもいいかもしれないけれど、合祀されることが恩給の対象ということになると話はまた別で、ほんとやりきれないと思いました。
 僕の勝手な想像ですが、遺族のかたにとって(とくに女性のかた)みたら、合祀されて神話的なよいしょ話で祭祀されることよりも、現実のお話、お金のほうが重要だったんじゃないかと想像しました。まさか、旦那なり息子を戦争にとられて、亡くなったあと、靖国に祀られるかそうでないかの基準によって、まるで犯罪者のように扱われるなんて、おもってもみないことだったんじゃないかと。本では、いまでいうDNQ的な小悪党もんみたいなやつが、それまでの行いをリセットされ合祀されたとありました。




靖国神社に合祀された戦没者は、遺族援護法や恩給法の対象となる点】

海外に残された300万人の将兵を帰国させるという膨大な作業はGHQにはできず、元軍人を活用するしかなかったというのである。

 戦没者の名簿というのは厚生省の仕事で、その省(引き上げ援護局)というのが、陸軍省海軍省があらたに改組された人たちが担当していたということのようです。

 たぶんいまよりも地縁血縁的なつながりが濃厚な村社会で、ましてや戦死した仲間たちの名前をお金にしてゆくのだから、もし自分に決定権があるのなら、ある種の空気を読んで、靖国の合祀基準なんか無視してすべてを合祀=恩給の対象するだろうな、と想像しました。けれど、例えば松岡洋右(彼のみがまちがった選択をしたなどとは僕は思いませんが)が、戦死ではなく病死したにもかかわらず合祀されたとあるというようなものを読むと、それはそれでまた別の違和感と疑念がおこって、荘厳な祭神だの神葬だのはそもそもあとづけの茶番なのでは?と。それこそゲニウス・ロキ的なものはとっくに失われており、もう其処は、利権や集票装置のひとつであり、国からの恩給をきめる部署としての存在が肥大してしまったようにおもえてならないです。なかには純粋に靖国ロマンチシズムにひたりたいおじいさんもいるかもしれないし悪くはないとおもうけれど、というかもしそうしたロマンチシズムを信奉しているのなら、本気でそう思うのなら、本気でそう信奉した乃木希典や玉木文之進のように腹を十文字に切るべきなのではないかなどと思ったりしちゃいました。それでそうした乃木希典西郷隆盛なんかに親しんだ昭和天皇なんかは逆の意味で死ぬことが許されない、だからゆえにA級戦犯の合祀された靖国にはいけないのではないか、とか想像しました。


国によって援護されるのは、軍人や軍属の遺族、傷痍軍人であり、一般の国民はその対象にはならなかった。広島・長崎の原爆投下や東京などの空襲で亡くなった一般人は間違いなく戦争の犠牲者であるにもかかわらず、その遺族を国が援護することにはならなかった。

そうして······

公務中に亡くなった自衛隊員が靖国神社に合祀されることはない。

合祀というのは骨を納めるとかそういうわけではなく、ろうそくの火をうつす的なものらしいのというのに(だからいったん合祀したら、ちょいと抜きますわとはいかないようです)、ちょっとどうなんだろうとおもいました。








【まとめ】

 かつての靖国神社は、様々なアトラクションが集中するディズニーランドとかラスベガスのカジノのような存在だった、そういう解釈でいいと思います。



【補足】
 気になって靖国について書かれたブログをいくつかチェックしました。だいたい「A級戦犯の合祀」と「宮内庁記者の残した富田メモ」について述べているのが目につきました。ようするに合祀しろ!あのメモは嘘だ!マスコミは政治利用している!真実はこうだ!ということのようです。
 そんな事は全くどうでもいい自分としては、「へー」ぐらいの感じですが「一理ある」とも思いました。もし彼らのだれかが友だちだったとしても普通に付き合うかもしれないし、そういう話をしたいから焼肉でも食おうというのなら、いいよと言って、僕の反対意見をハラミでもつまみながら食べれたらいいなとも思いました。たぶん床屋談義好きのひとなら「俺も参加したい」的においしく焼肉がいただけることでしょう。
 それで全ていいような気がしてならないです。あのひとが読んだ本からの意見と僕が読んだ本からの意見。どちらにとっても自己承認できそうです。
 ただ身銭をきることもなくネットにあるtwitterとか、「まとめサイト」とか、ブログの意見(僕の書いたのものとかもろもろ)を斜め読みして、声高にしているひとはちょっと「どうかと」思いました。そしてこの僕が思う「どうかと」+「おもう」が感情意見なんだなと······
 感情意見とか感情論というのはやっかいで······もしこれが解決できるのならカップルのかなりの多くが延命しているのではとか思えてならないし、さまざまな怒りのすきまに入りこんでいるように思えてならないです。
 なので、一理あっての意見は楽しんでよいけれど、ただの感情意見にはじゅうじゅう注意したいと思いました。




僕が書いたものよりわかりやすいブログ↓
http://ameblo.jp/lancer1/entry-10014915240.html
 

富田メモに詳しいブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/tt23vd8m/11757719.html

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