陽だまりを愛する
- 作者: 町田康
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/04/15
- メディア: 文庫
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『猫にかまけて』町田康(著)
ココア、ゲンゾー、ヘッケ、奈々という猫たちと、町田夫妻との暮らしを綴ったもの。
〈感想〉
前半3割が喜劇的に。残り7割はーーペットを家族として迎え入れ、彼らと暮らしを共にしたことがある、すべての人が体験するであろう悲劇が切々と語られていた。
死を前にしても、なお、けなげな猫たち。やさしくしてくれろとも言わぬし、手厚い看護を求めることもない。むしろ人目を避けるようにする衰弱した猫たち。その「時」の訪れのことを、人間は「死」とか、「最後です」とか言う。神様なる表象が有効な世界観のばあいは、「あちら側」だとか「天井界(こちら)」となるのかもしれない。また科学者の目からすると「土に還える」または「分子」へと戻るのだということなのかもしれない。そうして猫の側からするとどうなのか? 猫に憧憬することはできても自分は猫でないから、ただただ信用のならない言葉を頼りに想像することしかできない。猫の側からすると、人の云う「その時」にたいする構えとは、おそらくおなじ方向を指してはいても、何か、その距離感のごときは、ぜんぜんに違うのかもしれんな、と、このたび落涙しながら本を閉じた。
人と猫の死生観にどれだけの違いがあるのだろうかというのは、さすがに説明できない。せいぜい自分もかつて猫を飼っていたことがあり、その当時飼っていた猫の老衰してゆくその「空間」と、まだ老衰の始まっていない自分との「空間」に、いいようのない不安と、不条理さを感じた記憶が残っているくらいである。で、その当時のぼやーんとした記憶と、この本に書かれてある猫の様態や、その猫にたいして「なにもしてやれない」、あるいは「死に至る時間を止めてやりたい、でもその時間を否定すること自体、死への肯定でもある、というか、本質的な人間の死への肯定をも否定するつもりはなくって、ただ猫の時間がね、猫があまりにも不憫だからね、って。もちろんそんなの全てなにものにも纏まらない言葉の遊びにすぎないってことは分かってるんだけどね。っていうかつまり、そこにいる君が人間であろうと猫であろうと、想像してまう言葉の未来のせいなのか、もうとっくに僕は君の死を受け入れてしまっている」という不人情きわまりない心境になる、or「過去形の受け入れがたい未来を受け入れたように体験した」というべきか? カッコよくいえばメメント・モリ(死をおもへ)という言葉の目指す意味の先が、「素晴らしき後悔」であると分かると同時に、そこで嫌々に振り返ってみたりすると、過去の景色に「永遠」と「死」が仲良く続いているのを見続けることになるというべきか?
ともかく猫や犬から好かれることほど心強いことはない。