東尾張乱射事件

【次回の記事予定】「お金」で「愛情」や「友情」が買える『脳内麻薬 ドーパミンの正体』を読んだ感想。

NUDE or Higashi

Owari Ranshajiken

ざわざわざわざわ

これぞ詩『わたしは罪悪に向かってまさに勃起したのだ』byジャン・ジュネ

泥棒日記 (新潮文庫)

泥棒日記 (新潮文庫)

『泥棒日記』ジャン・ジュネ(著)

 

 父なく母にも捨てられ、泥棒をはじめ淫売婦に乞食や男娼たちに囲まれ、見事なアウトローに成長してゆく主人公。そしてこちら側にでいうところの「liteな美」とは異なる、まったく真逆の世界観(deepかつシリアスな美)を、こちら側で使用されるのと、やはり見かけ上はまったくおなじ言葉で、つむぎ重ねたとするフランス文学。

 

赤ん坊のときにわたしを棄てた母については(・・・・・・)夜中に物乞いをしていた最前の年取った泥棒女であってっくれればいいがと思ったのだ。()「ああ、もしそうだったら、おれは飛んでいって彼女を花で埋めてやろう、水仙(グラジオラス)と薔薇で、そして接吻で埋めよう。おれは感動のあまり彼女の両目の上に優しい涙を流すだろう()「おれは彼女の顔の上に涎をたれ流すだけで満足しよう」と、わたしは愛情で胸がいっぱいになりながら思った。「彼女の髪の毛に涎をたれ流すか、彼女の両手の中にげろを吐くだけで我慢しよう。そして、そうしながら、おれのおふくろであるあの泥棒女に熱烈な愛を捧げるだろう」

〈感想〉
 もうずっと圧倒されっぱななしで恐怖さえ覚えた。と同時に、毎度のことながら、ジュネの奔放な人生にほんのりと憧れもした。妙な表現をすれば「ネコ」みたいでイイなー、と。あるいは、もしジュネが現代に生きていて、たまにTwitterやらブログなんかをやっていたとしたら、どんなんだったんだろう? とか。あるいは、こないだうち海外事情の記事を読んでいて思ったのだけれど、ちょい以前のフランスで強行されたらしき、いわゆるジプシー(ロマ)排斥の件など、もしこの小説に出てくるアウトローたちなんかの価値観が未だに生きていたとしたらならば、彼らなら「そこで」いったいどういった行動にでるのだろうな、とか。
とにかく、とりとめもない事を考えつつ今これを書いている。
 タイトルは泥棒とある。んが、本に記述されている犯罪はそれだけにとどまらない、というか、ジュネの世界観の中では、罪を犯すというのは、いわば勇敢な偉業としてありながら、また、その人(Man)にしか与えられなかったであろう「大きさ」というのが、しごく、やたらに重視されていた。で、その「大きさ」というメジャー視点とうのが、これがまた屈折しており、必ずしも、人格や抽象的な理念だけを示すものではなく、なんと、(Man)の股間にぶらさがる、目立つくらいのブツの「大きさ」が重要だというのだ。さらに、一般的にいう「肌にはりのある若さ」なども、ジュネが齢を重ねるにつれ、とりわけ重視される傾向にあるようだった。そのあたりの人間真贋は、「家に帰るとオヤジになる娘」と変わらないな、というところかもしれない。
 そんなわけで、ひとまず男子(といってよければ)その読者にちがいない自分としては、かなり違和感を強くせざるえない巨根に関する描写が多かった。ペースは落ちることなく、親密にすぎる一人称で、ジュネの語りはどんどんページは進んでゆく。そして実に深く、時に辛辣に、時には奴隷のような視点で、ついには神視点に到達したごとく、世界のオトコたちを観察し、そうして明確に、この世に生きているだけの人間と、人間を超えたオトコというのをくっきりと色分けしてるようだった。それで、もし、その検査が健康診断のごとく、現況の行政から執行されたのならば、とうぜん自分も「生きているだけのもの」となるにちがいないだけに、読み始めてすぐは、ここに書かれてあるさまざまな価値基準というのはかなり偏っているのではと眉を寄せたりもした。んが、半分もいかないうちに、ジュネのつむぐ言葉の威力に屈することとなった。どうあってもジュネのつむぐ美しき比喩を受け入れたくなる。で、そうするには女、子供も、大人も分けへだてなく殺戮した歴代の犯罪者を賞賛するくだりにも首肯せざるえない、となる始末。
 そういう意味でいうととても危険な書物でもあった。そんなフィクションと現実とを混同するなよ、というむきもあるかもしれないけれど、そのフィクションに感化されるという現実もあるのだからしかたがない、というかまるで現実のようなフィクションが一つもなかったら、それこそ現実という夢の中でじっとしているということにちがいないと思うしだい。

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