東尾張乱射事件

【次回の記事予定】「お金」で「愛情」や「友情」が買える『脳内麻薬 ドーパミンの正体』を読んだ感想。

NUDE or Higashi

Owari Ranshajiken

ざわざわざわざわ

■ゴドーがくるのを待ってしまったおれたち 

おどろきの中国 (講談社現代新書)

おどろきの中国 (講談社現代新書)

■去年『ふしぎなキリスト教』橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著) を読んで面白かったので、また同じ心地よさを求めて。


■鼎談(三名)形式なので改行も多く、いくぶんゆるい感じ。とはいえ、新書のわりにぶ厚く、その内容も中国であるため、お経のような漢字ばかりが続く。そうした漢字責めが苦でなかったといえば嘘になる。


■さらに中国についての基礎知識がほとんどないため、せっかく読了したにも関わらず、理解度でいうと一割もないかもしれない。とりあえず以前、毛沢東の専属の医師だった人(アメリカに亡命後)が書いた上下本を読んでいたので、毛沢東のチャプターだけ、その理解度を二割としたい。





毛沢東の私生活〈上〉 (文春文庫)

毛沢東の私生活〈上〉 (文春文庫)

毛沢東の身長が180以上あって全裸で揚子江だったか?なんとかという河を平泳ぎで、よく横断していたという肉体的エピソードばかりに驚いたりした。そして今回おどろいたのは、毛沢東が地方の出身者であるため、その特殊な中国語(訛もひどいということでしょうか)が、周りの部下たちへ、正確に伝わっておらず、誰も理解していなかったのではないか、という一文のところ。あと子息に父親を批判させて、儒教の枠をぶっこわした点が、中国の歴史上ただ一人であり、又、その破壊的な経験が、現在の資本主義経済への流れを作ったという点など。






愚か者、中国をゆく (光文社新書)

愚か者、中国をゆく (光文社新書)

ノンフィクションでは一番好きな作家さんで、カンフーシューズなネタのところなど最高だった。他にも返還前の香港へ留学した本も良かった。










儒教道教朱子学について。あるいは中国の歴史。

■去年、葬式関係の本を何冊か読んだときもそうだったけれど、サラッと軽めの本を数冊読んだだけでは、これら思想への理解がぜんぜんしっくりこない。なので今回も、三人の学者によって、こうした思想が云々と語られるんだけれども、底の浅いザルで、その上澄みだけをボタボタとすくう理解となり、とても残念。

 そうかといって儒教道教朱子学の本を本格的に読むというのは、ちょっとマニアックすぎてしんどい(山本七平を数冊読んで懲りた)。ただ上記3点のやや歪んだエッセンスが、おもに生活とか教育によって、自分の個人史に「確認できる」のとはまったく異なる文脈で、これらの思想が中国では機能していることがわかった。いや、やっぱり分かってないな! と訂正したくなってくる。




■なぜならまず、単純に日本だと、戦前戦後とか江戸時代だの平安時代だの、といった過去への想像がそれなりにつくのだけれど、中国から伝わったという文字。これひとつとっても、メソポタミア、エジプト、マヤ、そして中国。世界にあるすべての文字がこれらの模倣や派生であると書いてあっても、その時間の長さがピンとこない。もしかしたら、山川年表なんかを参照するなどして読むと、しっくりくるのかもしれないけど。一時が万事こんな調子で、多民族、多言語、天という概念? 人口、内戦、権力の構造、地理、面積、EUの四倍等(ということはココにイタリアもフランスもドイツもギリシャなんかも入っている×4という想像がつかない)、とても理解に苦しんだ。





山川世界史総合図録

山川世界史総合図録

絶賛レビューにつられて僕も入手した手合の一人。2回しか見てない。







■あと、理解の壁となっているいちばんのネックは、たぶん中国を舞台にした、映画や小説による物語を、僕がぜんぜんに知らないのが原因の一つだと思う。『鬼が来た』姜文(ジャン・ウェン監督)という好きな映画が一本があるくらい。








日本軍の隊長を演じる人の存在がほんとうに恐ろしくて、その存在におそれおののくラスト近くに展開する、隊長の一喝号令で、空気、音、時間、そのすべてが止まったかのような数秒が最高に好きです。あと最後の首切り。タランティーノの映画にもあったけど、そういった首切られ後の世界というのに少し興味を抱いたというか、もしかしたら三島由紀夫なんかも、そういったフェティッシュな願望があっての最後なのでは?とも勝手に推測したりしました。











満州日中戦争と中国人の一般意志(ルソー的な意味)

■中国人と耳にするとやたらと差別的になるひとがリアルにもいたりするので、とても興味深く読んだ。


■ひととおり読むと確かに日本が過去にした行いに対して中国人が怒るのも無理ないと自分は思った。もちろんここで言及されているのは、日中戦争以前の歴史観をふまえて解説されてもいるし、靖国参拝についての「いつしかネタがベタとなった」経緯についても触れられてもいた。



■また有名なドイツのヴァイゼッカー大統領の罪と責任を区別する対処を例にあげつつ、




日本でも『荒れ野の40年』(邦訳は岩波ブックレット)と題する、1985年5月8日の連邦議会における演説の中の一節“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”で知られる。「過去についての構え」である罪と「未来についての構え」である責任とを区別し、個人によって罪が異なるとしても共同で責任を果たしていくことを呼びかけた[3]。この日はドイツ降伏40周年にあたり、ヴァイツゼッカーはこの記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と形容した。他にも“自由民主義体制において必要な時期に立ち上がるなら、後で独裁者に脅える必要はない、つまり自由民主主義擁護には法と裁判所だけでは不足で市民的勇気も必要”など名言は多い。その在任中に1990年10月3日のドイツ再統一を迎え、「統一することとは、分断を学ぶことだ」と題する演説をして、新たに加わった国民(旧東ドイツ国民)を歓迎した。Wikipediaより)

■そうしてまた、日本とナチは区別しなければいけないという論法で、本では慎重に解説されていた。ちょっと慎重すぎるのでは?と思うくらいの解説だったけれど、すでにそれだけ多くの人が現在、「嫌中国」であるとのデータも示しつつ、そうした「威勢よく言いたい厨」と「ただ溜飲をさげたいだけ厨」らが、なんら未来を引き受けるべく処方ももたないことにも二言三言あった。もちろん自分は感心しきりに読んだ。と同時に、この本とは関係ないかもしれないけれど、反原発のことなんかを自分はだぶらせて読んだりした。



■自分も少し前までは「東電はいくらなんでも邪悪すぎる。当時経営者幹部は現在海外でブランチだと?」ぐらいの勢いでもいたし、反原発を真摯に訴える 音楽に心を揺さぶられもしたんだけど、ちょい前くらいに知った、モーリー・ロバートソンshowを聴くにつけて、「日本は反原発でいいかもしれないけれど、これから先倍増するであろう、中国やインドなど他国の人口を養うにはもはや原発しかない」という理屈を聞いてから以降は、闇雲に「反原発」と凝り固まるのも、それはそれで自分は何様なんだろう、と思うようになった。







しょぼいことにこれを知ったのが、今年の春だったため、いまでもじゅうぶん新鮮に感じます。





※動画を探したけど、何故かなかった。








ニュークリア・エイジ (文春文庫)

ニュークリア・エイジ (文春文庫)

村上春樹の翻訳小説なので……そう思って読んで挫折した最初の本。核に怯えて家族のためにひたすら穴を掘るところまでは覚えているけれど……







洪水はわが魂に及び (下) (新潮文庫)

洪水はわが魂に及び (下) (新潮文庫)

阿部和重氏がこれまで読んできた本で紹介していて、自分ももれなく読んだ。石原慎太郎の小説がハナクソ以下に思えるくらい強烈な小説だった(石原再評価にやんなる)。完全な私小説ではないけれど、あの親子の生き場所の無さ(シェルターに篭って世界と戦う)かげんと、絶望があまりにも、真実っぽっくてほんと参った世界。





RCサクセションサマータイムブルースを検索して「原発37個の時代」からWHOへゆき、ジャムになった。







http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/175d5522d7cb9a9b98a50f45cad66157







勝俣恒久会長
 →日本原子力発電社外取締役に再任(現在家族と共に海外在住)
 
清水正孝社長
 →関連会社・富士石油社外取締役天下り (現在家族と共に海外在住)
 
 武井優副社長
 →関連会社・アラビア石油の社外監査役天下り(現在家族と共に海外在住)
 
 宮本史昭常務
 →関連会社・日本フィールドエンジニアリングの社長に天下り(現在家族と共に海外在住)
 
 木村滋取締役
 →関連会社・電気事業連合会の副会長に再任(現在家族と共に海外在住)
 
 藤原万喜夫監査役
 →関連会社・関電工の社外監査役に再任(現在家族と共に海外在住)

引用は阿修羅ですが(・_・;)http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/848.html














■さらに『おどろきの中国』では、「なぜ北朝鮮はまだ存在するのか」という問いを立てており、ヨーロッパの社会主義崩壊を例にあげて、そのとき崩壊によるリスク(大量の亡命者と難民を引き受ける)を社会主義国の隣国が、ちゃんと引き受けたからこそ、あの体制をドミノ倒しのように進めたとあり、それに対して日本は「どうか?」という視点が提示されていて、ちょっと大袈裟かもしれないけれど、このリアルな同時代のヨーロッパ人は、そりゃ嫌だろうけれどもそうした隣国の人を受け入れているという、事実やそれに続く面倒を(めんどくさいと考えつつも)暮らしているのかと想像すると、けっこう胃のあたりがグルグルっと、自分はきた。









ほんとうのこと(データやら)や幸福の最大公約数の話は、さっぱり知らないけれど、たまに耳にするのは「いやあ結果、あの頃よりひどくなったよ」という説。まあでも日本でも、やたらと「愛国だの国益だのサムライだの」と喧伝されるわりに、他人を心配し、おもんばかる制度や保障(非常時を想定してのもの)が、どんどん削られ、そのかわりに、機会は平等に享受できる社会へ、的な声をよく耳にするのだけれど、ほとんど北朝鮮とまったく変わらないくらい固定化した、世襲議員や企業経営者や官僚がくまなくはびこっていることをおもうと――な〜んてぐあいに批判したいと思いつつ、もし自分がその立場にあったらと想定すると、なんとなく自分も同じふるまいをするような気がしないでもない、と想像すると、この日本人の骨の髄にまで染み込んだ「不安」や「恐怖」や「保身」というのは、いったい何に由来しているのかと知りたくもある。ざっくりと思うのは「同調圧力」もしくは「差別」なんかを無意識的に恐れているのか、もしくは、技術、技術というくらいだから、技術進歩万能説に従い、もう、どうしようもなく「ナマケモノ」な習性が血肉化しており、新しい一歩をふみ出す意思など、かるく越えているのかもしれない。新しい友だちを作る、あたらしい異性のタイプへの関心にチャレンジする、あたらしい食生活、日常。逆にいえば、固定化するのを忌み、まったく新しいスタイルを、いつでも、さも待ち望んでいるかのような、そう!「今の自分」のような、矛盾したありようが、らくらくと傷つくことなく存在していられる最善なのかもしれないと思うと、この先、生きにくくなるので……なにも言えない。







幸せに生きられるかどうかは自分次第なのか、社会の秩序が必要なのか

日本以外の国、アメリカもヨーロッパも中国も、6〜7%しか「自分次第」という人が出てこないんだけど、日本では「自分次第」という人がだいたい35%以上いるんですよ。このデータは不思議で、日本人が自己決定的だということを示しているわけではない。むしろ、われわれほど自己決定的でない存在はおらず、われわれほど依存的な存在もいないような気がします。(···)つまり、われわれは平時しか想定しておらず、安全保障の必要を考えておらず、安全保障の必要性を考えたときに当然要求される強いパワー(政治権力)を要求しておらず、さらにはそういうものを要求しないわれわれの特殊条件というものも自覚していない。だから「幸せにいきられるかどうかは自分次第」と言うんでしょうね。言葉を換えれば、自明性に寄りかかっているということになります。




■さらにちょうどこの本で靖国問題を読んでいるときに、amazonでポチってしまったのが、坪内祐三の『靖国』という文庫で、現在これを読んでいる。序文は最高だったけれど、じょじょにまた、「歴史的仮名遣い」の引用が増してきたので、難儀している最中。というか読了できない予感がする。

ネタがベタになる
冷戦体制のもとでの戦後復興が課題であるあいだは、アメリカに従属することで軽武装化し、それで身軽になったぶん経済成長を遂げるしかない。いずれ復興を遂げ、あるいは冷戦体制が終焉した暁には、多少なりとも対米自立・重武装化へと舵を切るときが来るだろうと。その帰結はぼくたちがよく知るとおりで、対米自立化は単に絵に描いた餅に過ぎませんでした。

ルソーの一般意志
一般意志というのは、諸個人の特殊意志やその足し算である全体意志とは区別された、共同体のことです。共同体には、必ず一般意志がある。しかし、この時期の日本の行動、軍隊の行動をふりかえると、日本には、まるで一般意志そのものが存在してないかのように見える。
南京事件を指揮した松井石根。彼の英雄主義的な陶酔は、日本という共同体にとって利益や欲望とはまったく異なるところからきている。(···)A級戦犯は、一般意志よりも、「空気」を優先させている。

靖国問題
靖国問題東京裁判と一体です。この裁判は、国際法違反や倫理道徳違反についての罪を、もっぱらA級戦犯が悪かったという虚構を打ち立てて手打ちとし、天皇と大半の日本国民から取り除いて、日本の戦後復興への国際協力を可能にするための工夫でした。


『おどろきの中国』を読んだ人の感想を、読んだ感想。
はてなブログだとちょうど「この商品を含むブログ」というリンクから、他所様の感想も見れるので見てきた。
まず、Bookmarkが8個ついているブログをまず最初に読んだ。
 約15行くらいの感想なのでなんとも言えないけれど、本のなかで、ヴァイツゼッカーとナチについて、あれだけ慎重にものされていたのにもかかわらず「つか、またドイツか」でまとまっているという……
それでもちゃんと対抗書物『中国「反日」の源流 (講談社選書メチエ)』 岡本隆司(著)へのリンクがはってあったので、よほど気がむいたら読むつもりで、静かにウィッシュリストへ追加しました。
 他に、8件ほど拝見(内3件はリンクとタイトル記載のみ)。
 mmpoloの日記さんというかたの記事がいちばん綺麗にまとまっているように思いました。
 あと、他の数名のかたも、おおむね自分と似たような感想で、理解をする素地が自分に足りないゆえもあってか、やはり「ぼんやりとしか分からない」とありました。そう、分からない。「あの中国のことだからねえ」といって、一つを指さしたその「メガネやモノサシ」で他を見渡すと、「あの国はこうだ、この国の歴史はこうで、地理的特徴はこうだ」等々、複数ある異国人属性のごときを余裕で示せる、という……

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