トルストイは負け組であろうとしたのか問題
- 作者: トルストイ,原久一郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/05
- メディア: 文庫
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『光あるうち光の中を歩め』トルストイ(著)
理想(信仰)に生きる貧しき男と、打算に生きる富める男の生涯が、急ピッチで描かれた短編小説。イントロに富者たちの雑談のごとき短編が置かれてもいる。
〈感想〉
これはぐぐっときた。なにかロシア版「花咲じいさん」のような柔らかい語りながらも、たどり着いて見える景色は、著者渾身の後悔、もしくは人生にたいする諦観のごとき殺伐としたものが見えてしかたなかった。実のない樹々。その実の恵むる甘さは「家族」であり、果汁は「信頼」であるというゆるぎない設定。主人公ユリウスはかっこたる信仰心により、実を食べることもでき、天寿も静かにまっとうする。んが、著者であるトルストイの場合、その信仰心がどうやら中途半端であったのだろうかというモヤモヤが、この小説の冒頭の短編につながっているのかなと想像させてくれたりもした。肩書きや階級のしっかりした老人たちが、ラウンドテーブルを囲み、信仰告白をする。ところがよくよく話にまとまりがついてくると無信仰であったことの言い訳に終わってしまう。
なにか、現実に見える実を「まずい」といえる味覚が幸か、実のない実を「んまい」といえる覚悟が幸なのか、そもそも人生を「幸」であろうとする仕組みの中で、そのハードルは適当なのだろうか、など読了後にため息でること必須。